小学生のころの私 1

小学校に入った私は父の仕事の都合で1学期が終わるより早く転校することになった

新しい学校では知らない子どもばかりのクラスで馴染めずにいた

友達はなかなか出来なかったし、先生も少し意地悪だったから嫌いだった

同級生の顔も名前も緊張のあまり覚えられなかったし、周りを見渡す余裕もなかった

転校後、元々苦手だと思っていた算数の授業が最初にあった時、とけいの問題が解けなかった私に先生が言った

「ぬいちゃん、前の学校の授業はここより進んでるって言ったのに、あんまり出来ないんだねぇ。もう習ったんじゃなかったの?」

私はその意地悪な先生の言葉を今でもまだ忘れられずにいる

算数はもっともっと苦手に、大嫌いな教科になった

アナログの時計を見て時間を計算するとき、今でも指折り数えないとわからない時がある

「今が20時だから、朝の4時まではえーと、、、、9、10、11、12、1、2、3、4で8時間か」みたいに

冷静に考えたらわかるのだ、12から8を引いて4、4時までは4時間だから足して8時間

でも、気が焦るとわからなくなる

急いで計算しなきゃ、と思うと頭が真っ白にリセットされて、脳が急に動きを止めてしまったように感じる

それで気が焦ると「えーと、えーと、なんやっけ?」という言葉しか浮かんでこなくなる

頭がじーんと痺れたようになって、息苦しくなってしまう

小学生のころはまだどの経験も浅く、何もかもが苦手だった

私は一瞬一瞬をなんとかやり過ごすだけで精一杯だった

給食は家で食べるご飯と味が違うから苦手だったけど、当時の学校教育は給食を残すことが許されていなかった

今思えばそれは「感覚過敏」の要素もあったんだろう

私の1日はとても永く、学校に行くのが苦痛だった

「早く家に帰ってお母さんに会いたい」

そればかり考えて授業中もぼんやりしていた

もし、私が小学生のとき、今のように不登校に理解がある社会だったら

そうしたらきっと、私は学校に行かなくなっていたと思う

今、不登校で苦しんでいる子たちみんなに何かの特性があるなんて思わない

ただ、中にはきっと私のように、ちゃんとした理由やきっかけはなかったのに行けなくなってしまった子がいるんだろうと思うし、その中には私のように誰にも気づかれないタイプのADHDの子もいるんだろうな、と思うのだ

ここの存在が、見に来てくれた誰かや、その周りにいる誰かの役に立てればいいな、と心から願う

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